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(テニス/岳人と慈郎)
部室棟の一階の自販機の前で、フルーツ・オレかバナナ・オレかで迷っていたら、誰かが肩にぶつかってきた。見ると、黄色い癖毛が隣に立っている。
「それちょうだい」
当たり前みたいに伸びてきた手に請われて、意味わかんねー義理も義務もねえ、と思ったけれど、岳人は右手に持っていた百円玉を慈郎のてのひらに落としてやった。平たく小さな金属のかけらをぎゅ、と一度慈郎は握りしめ、けれどすぐに「これじゃない」と突き返してくる。ふたたび岳人のてのひらに戻った百円玉は、真夏のアスファルトの上で焼かれたように熱かった。
「それ」
と慈郎が岳人の左手を指さす。岳人は左手にラケットを持っている。アホか、と心底思った。
「やだよ」
「どおして」
「俺がラケットくれっつったらおまえはくれんの、ジロー?」
「……あげないね」
「だろ」
「うん」
ああこいつ起きてねえ、と岳人は思った。まるく目をひらいて、膝下を切り落とした兄貴のお古のジャージから伸びた足でしっかり地面に立っているのにまだ起きていない。非常識という名の扉だけを鍵もないのに簡単にひらいて、常識を切り落とした世界にコートを踏むのと同じ足で立つ、そんな慈郎の不器用で寂しい生き方を、岳人はときに器用で愉快だと思った。うらやましいような気がしていた。
「跡部んとこいけよ」
起きていない慈郎の相手はひどく面倒なので、跡部に押しつけることにする。慈郎は素直にこくと頷いて、振り返らずにまっすぐコートのほうへ歩いていった。
岳人は自販機に向き直り、慈郎の体温の残る百円玉を硬貨投入口に落とす。どっちのボタンを押すかはまだ決めきれない。
なんの疑問もなく跡部のところへいく慈郎をうらやましいと思った。自分はどこへ、誰のところへいこう、と思った。
思いつかない。
「 、」
突然うしろから呼ばれて振り返る。とても見慣れた顔がそこには立っていて、取り立てて表情もなく、戻りが遅いので迎えにきたというようなことを言った。胸の奥がかすかに爛れるような気が、岳人はした。おまえじゃねえよ、と睨むようにそいつを見据えながら、拳でガンと自販機のボタンを見ないまま押す。ガタン、と、落ちる音がした。