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(日吉と慈郎)
「芥川さんの頭がおかしいです」
「いつもだろ」
「いつもよりです」
「持って帰れ」
無味乾燥なわずかばかりの会話を実に無駄に交わしたのち、生徒会室のドアは日吉の鼻先でにべもなく閉じられた。そうして邪険に追い払うときでも、雑な動作は決してしないのが跡部だ。公の場での彼の所作はあくまでも高雅。その例に漏れず音もないほど静かに閉まりゆくドアの向こうで跡部が確かに含み笑いをした。
なぜ笑う、とほんの一秒、いやそれ以下の捉えがたい刹那疑問に思ったか思わぬうちに、日吉の背中で低く動物的な声が笑った、もってかえれだって、うふふふふ。
振り返り、楽しんでいるのだか眠いのだか、あるいは腹の底から怒りに燃えているのだか、曇って不吉な目をした慈郎を見、遅まきながら日吉は悟った。
ああくそ、押しつけられたのだ。このとてつもなく厄介ないきものを。
そもそも慈郎の頭がいつもよりおかしいと思ったのは数分前、
「跡部がおれにゆったわけですよひよしくん、おれにいま必要なのはテニスの練習じゃなくてお勉強なのではないか、いな、きっとそうであるぜ、あーん? と。クラスのほとんどみんなが宍戸くんさえもが十点満点のクソぬるい古典のテストでおれが一点とかかましたからなわけですよ。そこでおれはオメエに相談しよーと思ったの、古典と古武術ってゆう共通点に目をつけたの。春はあけぼのって春場所のおすもうさんのこと? すもうって古武術?」
部室にいこうと靴を履き替えていた昇降口でとっ捕まって、わりとそれなりに本気のように見える目でそう宣われたとき、人はどう反応すればいいのか。助けてください、と誰にともなく懇願したくなった自分を恥ずべきとは日吉は思わない。そして助けを求めていきついた相手が本日現時点ではテニス部部長ではなく生徒会長である跡部だったわけではなく、慈郎を拾ったら跡部のところへ持っていけというのは男テニ部員の常識だ。
返品された慈郎を即捨てたい日吉だったが、シャツの背をつかんだままトコトコついてくるので、とりあえず部室までは持っていかなければならないようだ。異様に着替えのとろい慈郎を置き去りにコートの彼方へ行方をくらます自信なら十分にあるが、もし万が一振り切れなかったらと思うとぞっとする。
普段誰といても何をしていても唐突に落ちる慈郎なのに、なぜいまに限って黙々と目をひらいているのだろう。こういうときのこの人は大概機嫌が悪い、というよりこども然とふて腐れているのだと、なぜ自分は知っているのか。
「部活禁止とかゆわれたらどうしよう」
おれ跡部なぐっちゃうかも、と呟く慈郎はいっそため息も出ないほど自分勝手で論点がずれている。修正するだけ無駄とわかりきっていたが、ほかに言うこともないので日吉は言った。
「勉強もちゃんとすればいいでしょう」
「いや」
マッハの即答に腹を立てる気にもならない。慈郎はおそらく勉強ができないのではなくしないのだ。学生の本分たる学業に費やすべき時間をすべて睡眠に充てている。好きなことしかしない、できない、見ない人間など、日吉にとっては口をきく価値もない。
「あなたは幸せな人ですね」
嫌味のつもりだったのに、慈郎は当たり前に本気で不審げな顔をした。日吉は驚き、ひどく鼻で笑いたい気分になり、そしてなぜだかすこしだけ、悲しいような気がした。
「俺だったらあなたなんてとっくに捨ててます」
跡部だって、本来はそういう考え方をする人間のはずだ。その彼がいつまでも、永遠みたいに慈郎を見捨てずにいる理由、不自然すぎるゆえに本能でしかありえないそれにまさか本当に気づかないでいるのなら、この人はとても不幸だと思った。